昭和42年01月13日 十三日会



 本年初の十三日会を、開かせて頂くに当たりまして、私共の信心の抱負とでも申しますか、更な新たなものとして、今年も神様の願いに、応え奉られる信心を頂きたいと、こう思う。そういう願いを、持っておるのでございますが。本当言うたら私は神様の私共にかけられるところの抱負と。もちろん願いなのですけれど、やはり抱負という言葉で申したら良いと思うです。
 私共さあも今年こそはといったような様々な願いを持っておるんですけれども、その願いというのが、やはり神様の思いが分かっての、その願いでなからなければならんのでございますから。ですからまず私は神様の願いを、神の願いのとい、神の悲願といい、椛目の信心信者にかけられるところの神の願いというものが何処に焦点を置いてのものでなからにゃならんか。
 どうぞ神様あなたの抱負を聞かして下さい、と言った方が適当に感ずるですね。まあそんな私思いで御神前に、今日進ませて頂きましたら、御神願に頂きますのに。私共の小学校のその当時は拓本と言うておりますね。そいれにあの欲張り犬というのが御座いましたよ。皆さんもおありになったでしょうか、皆さんの時代には。こう橋の上から犬がね、魚をくわえて橋の上から水の上を眺めておると言う様な所なんですね。
 ところが何と向こうにも一匹の犬がその、魚をくわえて映ってる訳なんですね。それでその、向こうの魚を捕ってやろうと思うてから、ワンとこう吠えた途端に自分の持っておった魚までも落としてしもうたというのでございます。そういう、いわば情景を心眼に下さるんです、ね。私共の願いは同時に、これはもう間違いのないという願いは、やはり御造営成就信心生活運動であると思います。
 その為の、いわば様々な一つの方法と。御造営が成就していく事の為に、まあ手段を選ばないという訳には参りません。その手段の選びかたが大事なのです。御造営成就という事の願いは、もう変わりませんけど。んなら御造営が、成就さえすれば、手段を選ばんというような事では、ならんのですから、その手段を選ぶところに、私は信心生活運動があると思うのです。
 ここんところを皆さんが、それこそその心の中にも練りに練り、家族でも練りに練らせて頂いて、間違いのないところに私は焦点を置かせて頂くという事が。只今私共が、私が頂きます、ね。その欲張り犬の、ね、おかげを頂きたいという願い、は、もうそれこそ誰よりも大きく持っておるけれども、それが、それだけではならないと。それに対するところの信心が、私は内容としてなからなければ駄目だと、言うならば申します。
 骨折損のくたびれ儲け、ね。あぶはち取らず、といったような事がございますでしょうが。今年の椛目こそ、どうもそんな感じのする年がらです。ね、御造営が出来た。ね、しかし出けたというだけなの。信心の内容がない、ね。実際に、ならそれがその、出けたというだけで私共の実力で出けたとは思われないです。ようやく、強いて言うなら半分だけは実力で出けたという感じでございましょうが。
 これから、今日委員長久留米に午前中から見えて、高橋さん、杉山さん行ってあの、御造営のことの御用で出ております。ですから委員長の方法もございましょう。それで皆さんの色々な方法もございましょう、そういうものも頂き合わせて頂こうと思うのでございますけれども、何と言うても天地の親神様の、金光大神様の椛目にかけられるところの抱負というものが一番大事なのでございます。
 その神様の願い、本当の抱負に応えまつるところの信心、それを基盤としての私共の抱負でなからなければなりません、ね。そこで、どうでも私共は信心を内容とするところのものでなからなければならない。ね、あれもこれもと思う事はいわば心はやたけにはやるのでございますけれども、それではちょうど橋の上に立った犬が自分の持っておる魚もよう食べずに、向こうに映っておる影を、影に向ってワンと一吠え吠えたようなものであって、それこそあぶはち取らずになりかねない年がらなのです。
 そこんところを私は久保山先生なんかは、やはりそこんところを見ておったと、こう思うのです。元旦のお届けが、どうぞ今年は私を始め、椛目全体の者がいよいよ自重の年だと思いますというお届けでございました。ね、久保山先生の御霊に応える意味合いにおきましても、ここのところの自重がなされなければならない。自重と言うて、ただ引っ込み思案でおるという意味じゃございません。ね、
 活発に信心運動が繰返される所のおかげを頂かせてもろうて。現在自分が頂いておるもの、自分が現在加えておるもの、是をまずよくよく味わってみなければならない、自分が現在頂いておるおかげというものをです、もっともっと深く広く分からせて頂くこと。今日、久保山の子供達が3人で、明日が十日祭になりますので、お供え物を買いに行くと言うて、行きがけに寄って参りましてから、そこでの話ございます、ね。
 父が偉大な信心を残しておってくれたという事は、もう亡くなると同時に、様々な自分達の心の上に感じる、その信心によって感じたんですけれども。その親の願いに応えるという事、ね。ただ信心を、残しておって頂いたというだけではなくて、その願いに応えるという事になってくると、ならさあ、どういう信心をさせて頂いたらよいかと、いう事になるのだと言う様な意味の。もっともっと切実な、深刻な言葉で表現しておりましたけど、今ちょっと私がど忘れしております。
 あとで思い出させて頂きます。ですから私共が本当に御造営なら御造営の事に対して、自分の信心の抱負と同時に、それを実際の上に現わしていけれるおかげを頂く為にです、ね。橋の上の犬ではございませんけれども、ね、影のような物を、にいわば吠えて進んだところで、自分の持っておる物までも落としてしまう。せっかく成就し、形の上では成就したところの、そのそれすらが、私は台無しになってしまう。
 あぶはち取らず、骨折損のくたびれ儲けになってはならない、もうそこの見通しをつける、私は年柄であると、こう思うのでございますから、ね。いわゆる自分のくわえておる物、自分の頂いておる物をです、まず頂かなければならない、まずそれを味あわなければならない。自分の頂いておるおかげという物をです、ここ15年、16年の間にどのようなおかげを頂いて来たかと。
 現在頂いておるおかげという物をもういっぺん、いうなら思うてみなければならない。先ほど久保山の子達が言ったのはその事でした、ね。頂いておるそのおかげという事についてです、ね。そのおかげ、頂いておるそのおかげに対してです、やはりお父さんは偉大であったなという事が感じられる。そのおかげに対して、そのおかげを本当に味わなければ。今までは当たり前の事のように思うておる。
 親が祈っておってくれる、親がしてくれる事を、もう当たり前の事のように思うておったけれども、ね。実際親が亡くなって見ると、残しておってくれておったその物をです、もういっぺん私共が再吟味、再それを味わせて頂くところのおかげを頂かせてもらわなければならんというのであると、ね。そういう事になりますですね。これは、いわば私共の新年の抱負ではなくて、神様の抱負である。
 まず神様の願いをさせて頂いて、椛目全体の者がです、まず自分のおかげを受けておる事をまず検討させてもろうて、ね、そこから次の私は魚を狙わせてもらうなら狙わせてもらわなければならない。4月がだいたい落成になりそうでございますけれども、おそらく4月まで何かとまだかかる事でございましょう。外回りがあります、塀がございます。内部的なまだゴチャゴチャな事もございましょう。
そういたしますとちょうど、いわば2年に亘るところの御造営という事になります。2年の間、言うなら信奉者の皆さんが一生懸命に内外共に尽くされた体でも、財の面でも一生懸命に皆さんが尽くされた。ようもまあ、ここまで尽くされたものだと、私は思うくらいでございます。例えばあの御造営日誌を見せて頂きましても、本当に毎日何人かの人達が奉仕に出ております。
 しかも2年間という間を2年間とね。本当に容易ならない事であったとこう思うのでございますがです、けどもそういう事は済みました。そういう事はもう終わりです。けれども本当の意味でのいわば信心の御造営という事が私は成就する時に、形の上の事も私は成就するとこう思うので御座います。その為にはどうでも今年の私共の願いとする所は、まず久保山先生の年頭に対する所の、願いである所の自重であると。
 自重というのは、ただ引っ込み思案に、なってしまうというのではなくて、ね、私共がまず自分の、現在頂いておるおかげを、おかげと本当に実感出来るところから、そこから喜びが発する。そこから有り難いというものを持って、私はおかげをおかげと、気付かせて頂くところから道が開けて来る。そこから思いがけない、それを受け物としてのおかげが頂けて来る。ね、
 そのおかげを持っての、私は御造営成就でなからなければならない。それが運動となって展開して来る所のおかげね、ここに愈々自重しなければならない事は、橋の上にくわえて立っておる犬が自分の影を見てね、ワンと吠えた途端にね、もう一つのこの魚を捕ってやろうと言う様な、いわば我情我欲の為にです。狙いはそれは素晴らしかっても、あの影を取って、そして御造営のっとこう思うてもです、自分に実力もない。
 いわば影を見て吠えて、自分の持っておる魚までも川の中に取り落としてしまうというような事ではつまらない。言うならあぶはち取らずになってはならない。ね、ましては椛目全体の事の上に置いてです、骨折損のくたびれ儲けになるか、あぶはち取らずになるか。そういう私共の信心如何によってです、そういう私は岐路に立つお年柄であるとこう思うのです。いよいよ椛目の者、愈々合楽の者という事になる事は、私共の信心内容がその御造営の内容になって来なければならないという事を思います。
 どうぞ、ここんところをいよいよ自重させて頂きまして、頂いておるもの。その頂いておるものに対するおかげをおかげと感じさせてもらうところから新しい、今まで例えば久保山の子供達が今日3人話しておりますように、ね。そのおかげに対しましてです、ね、奮い立たせて頂くというような信心。いよいよ自重をさせてもらって神様の願いに応えさせてもらえれるお年柄にならなければならんという風に思います、
   どうぞ。